江戸の庶民の花火

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打ち上げ花火が盛んになったのは江戸の中ごろのこと。

そして、東京・両国の花火が始まったのは、享保18(1733)年5月。

花火が打ち上げられるにあたってはある理由があった。

その前年にいわゆる「享保の大飢饉」が発生。追い打ちをかけるように江戸では疫病が流行、多くの死者を出した。

この事態に8代将軍吉宗が隅田川の川開きに合わせ、死者の弔いと悪霊退散を願って水神祭と施餓鬼を行った。
このとき打ち上げたのがそもそもの始まり。

5月末から8月まで毎晩のように打ち上げられた花火は、やがて夏の夜空を彩る風物詩となっていく。

時代小説「眠狂四郎異端状」で柴田錬三郎は当時の賑わいを「両国橋をめざして漕ぎ寄せられる納涼船は、7つにはもう大川を埋めつくして、三味線や笛太鼓の音を鳴らしていた。・・・鍵屋・玉屋が打ち上げる花火は、12提灯という仕掛け花火で終わるのであったが、それは5更であった。」と描写している。

今の時間で午後4時から翌朝の4時まで、賑わいの程度は相当なものだったろう。

花火の始まりは、徳川将軍家

日本で初めて花火を鑑賞したのは、徳川家康だそうだ。

イギリスからの使節が駿府城で披露したという記録が残されている。

今のような打ち上げ花火ではなく、筒から火花が吹き出すタイプのもの。

当時の原料は硝石、硫黄、木炭。炭が燃えるような地味な色だったと推測される。

当時の姿を留めるという愛知県豊川市の「手筒花火」。

1メートルほどの竹筒に火薬を詰めて着火、それを人が抱きかかえながらおこなうもの。

一般的な手筒花火は、竹を切り出して筒にし、そこに火薬を詰めるまでの工程をすべて、打ち上げる本人が受け持つ。点火されると轟音とともに橙色の火柱が上がる。花火師は仁王立ちの状態だ。金色に輝く火の粉が全身に降りかかる。

火柱は大きいもので十数メートルの高さにまでその光を放ち、最後に「はね」と呼ばれる爆発音がして終わりを迎える。

愛知県の三河地方は、家康の出身地ということもあり火薬の規制もゆるやかだったので、町人が競って花火製造に従事した。

徳川家のお膝元ゆえに、花火はさまざまな形に発展していったのである。

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引用・参考

▼花火 (NHK美の壺)
NHK「美の壺」制作班

冬花火

昨日あたり木枯らし1号が吹いたのかな

もうめっきり冬になっちゃいました

花火も季節もとっくに終わっちゃいましたね~

今更ですがどうして花火は夏の風物詩なんだろうってふと考えてみました

そしたら花火は屋外でないとすることはできないし見ることもできないから冬の寒い中外に出て何時間も座ってみてるなんてことできないから夏のものなんですね~

なんて考えてたらなんと三重県伊勢市にて11月に花火大会があるんですね~~

第62回式年遷宮奉祝記念「第13回全国伝統花火サミット in 伊勢」って銘打たれています

そんな花火大会があるなんて初めて聞きましたがもう13回目というだけあってネットで検索するといろいろ出てきます

伝統花火ということで手筒花火や仕掛け花火がメインとなっていてスターマインのような派手派手しい花火はないようです

でも冬に見る花火も良いんではないでしょうかね

昔はほっそりとしていた私も、今では贅肉体質になってしまいました

手前味噌ですが、私も昔はほっそりとして男性にモテたものなんですよ。まぁ昔と言っても数年前なんですけどね、学生時代は本当に華奢な体で、それこそ無駄な贅肉なんてありはしませんでしたね。

ところが、今では無残なものですよ。社会人になってストレスと暴飲暴食がたたってか、お腹なんてボヨンボヨンですからね。学生時代の友人に会うたびに、表情が「あ、また太った」と言っているようで辛いのです。

おまけにそのような体型になってからというもの、全く男性に声もかけられなくなってしまい、このまま一生独身かもしれないよと恐怖に陥ることもあります。

しかし、そうは思っていても仕事のストレスからは逃れられませんし、暴飲暴食も止められそうにありません。止められれば贅肉もスッキリとしていくのでしょうが……。

ポッコリお腹

とは言え、やはりこのままではいけないとおもうのです。結婚もしていない女が、お腹を出していては格好も付きませんからね。ましてやくびれなんて、夢のまた夢です。今度こそはとも思うのですが、何か良い方策はないものでしょうか。

こんな無様な格好の自分から、どうにかして抜け出したいですよ。今職場で話題になってるスレンダートーンを購入してみようかしら…でも、効果って本当にあるのかね…謎です。